昭和44年10月5日 朝の御理解

御神訓一、「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ」



 哀れさと。「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ」と。
 昨日四日、あの先生方の会がございます。神愛会が(うたえて?)あります。昨日色々お話をさせて頂きます中に、久留米の三橋先生が、信心を頂いておる者と、信心を頂いていない者の、段々年をとっていく。あの晩年になってからの違いといったようなものを最近非常に感ずるという事を話しております。
 あー、三橋先生の知った、あー、範囲の人達をずっと見てからそれを感じるんですね。若い時には非常に心の太い人。いうなら、度胸もありゃ、心も、いわゆる太っ腹な人。そういう人達が、段々あの信心がない、そういう人達はですね、あの段々年をとっていくにしたがって心が小さくなっていくという。ね、信心がない者は。
 晩年になればなるほど、心が確かに寂しゅうありなさろうとこう思うように、心が寂しゅうなっていき、なっておると。別に財産が減っていきよるとか。世話する人がないとかといったようなことがなくてもですね、信心がない人は、若い時にはなかなかのやり手であり、太っ腹な人であり、大きな心の人であったのに、段々年をとっていかれるにしたがって、心が小そうなって、心が弱うなってきなさる。
 そこに、不安が、傷愴ね、といったようなものも信心のない人から感じますけれども、不思議に信心を頂いておる人は、信心、年をとっていくにしたがって、ね、心強い生活というか、いわゆる若い時には色々と非難があったような人でもです、段々心が豊に、まぁ人に愛される年寄りにな、段々なって行くことが出来るという事を、まぁ三橋先生は、自分の周囲の人達から、じっとこう見渡してみてです、そう思いますというて話しておりましたが、確かにそうだと思います。
 そういうようなところじゃないでしょうかね、今日頂きます、「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ」と。信心の道も、真の道も知らん。ね、いわば人間の生きて行くという、生きて行くという事には、本当の生き方を求め求めしていく生き方、それが信心だと。
 ね、本当の生き方を求め求めしていく生き方。その生き方の中には、段々有り難い、嬉しい、ね、というようなその生き方が出来るのです。若い時には、心の小さい人。まぁいうなら、あんまり人から対して愛されないような人でもです、信心を頂いて、えー、神の教えが分かり、真の道を分からせて頂く。ね、そういう道を段々歩かせて頂くという事は、信心をさせて頂く者は、本当のことを求め求めして、行く生き方にならせられるからだと、私は思います。
 自分が間違うておった。自分の生き方は嘘であった。こんなことではいけない、といわば本当なことへ、改まり改まりしていく生き方なんですね。そういう生き方が求められるところからですね、年をとっていくにしたがって、何とはなしにまぁ安心とまではいかんでも、心が豊になり、大きくなり、年をとっていくにしたがって、心豊かになって行く。
 ところがそれとは反対に、信心のない人は、若い時には心の大きな人。ね、いわば度胸もある人、というような人達が段々先の方がいわゆるなんですかね、んー、寂しゅうなっていく。年をとっていくにしたがって寂しゅうなっていく。不安、傷愴が強うなっていく。
 これは、なら三橋先生が、自分の周囲を見渡した時に、それをまぁ実感しておる事を昨日そういう風に話しております。ね、自分の周囲の人達、人達年をとっていく人達を眺めて、若い時はあの人はあんな度胸もんじゃったのに、あんな心の豊な大きな人じゃったけれど、年をとっていく(かしら?)にしたがって、ね、寂しゅう心がこもう、いわゆる不安定な生活を送っておる、毎日送っておるというのである。
 というて、んなら財産が減ったとか、あー、(みるもん、いよう?)なものがないとかといったような事ではないのですけれども、段々そういう事になっていく。確かに私共、年寄りの話し聞きながら思いましたですね、ずっとこう見てみると。確かにそうだとこう思う。
 ね、けれども私はその、「神の教えも真の道も」とこういっておられます、そこんところをはっきり言葉には出らなくてもですね、そのやはり、本当の事というかね、本当の事から、本当な事へとそれを追求して行く生き方。ね、いうならば、毎日この、改まった生き方。ね、ことのあるたんびに、例えば、(わらだ?)こういう生き方でお話しを、教えを、神の教えも、とこういっておられる。神の教えを頂いていくにしたがって、自分の生き方が変えられてくる。
 だから、教えを頂く機会を持つ人。しかもその教えに、例えば本気で取り組んでいなくてもです、なにか機会があるごとに、はーこんな生き方ではだめだという風な反省を持って生きていく生き方。
 それが、あー、二十年三十年五十年と経って行くうちにです、大きな開きになってくる。お互いその晩年になってくる。したが、えー、なって行くにしたがって、晩年になっていくにしたがって、寂しゅうなって行く人。心が賑やかに、豊になって行く人。そこに信心のある者とない者の違いを、まぁ感じるのです。
 でそこで、なら信心させて頂いておるというだけ、ただ話しを頂いておるというだけじゃなくて、ならどういう生き方を大体においてしていくかと。信心のある者は。でそれで、その、前のところを頂いて、頂いてみていいですね。
 「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ」段々年をいっていくにしたがって、その哀れさが、目に見えてくるようになる。これは人が見てもそれであるから、神様の目からごらんになりゃ、なおさらの事、信心の道を知らんという事の哀れさをですね、神様が悲しく思われるであろうとこう思います。
 ね、それがならどういうところに、そういう違いになってくるかというと、その前の前ですね、「悪いことを言うて待つなよ、先を楽しめ」と。「悪いことを言うて待つなよ、先を楽しめ」と。そういうものが段々身に付いてくるからじゃないでしょうかね、信心のある者は。
 ね、なら漠然とではあっても、神様がついて下さるから、信心をしておるから、と長い体験からですね、それを何時の間にか身に染みこんでいくんですね。いわゆる悪い事を言うて、待つような心ではなくて、先を楽しむ心が段々、何時の間にか育っていくのですね。すと、信心のない人はどういうことかというと、ね、先々のことを楽しゅう、嬉しゅう思おうと思おうけれども、思えなくなってくるんですよ。
 ね、先を楽しめと仰っても、楽しまなく。段々こりゃ年をとるばっかりじゃから、どげな風にどんなっていくじゃろうかという事になってくる。寂しゅうなって来る。行くとに光りがない。ね、なるほど「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ」である。
 いわゆる哀れな(まつると?)それは実際はですよ、亡くなられる時でも、さぁお金があり、子供達が立派に出来、せい、していってです、それこそ、今亡くなる時でも決して寂しい亡くなり方ではない。いうならばお葬式ならお葬式でも大変立派な賑やかなことが出来てもです、その事出来ても、ならその年をとっていく本人自身は寂しい。
 まぁいうなら財産がありゃあるほど、あーこの財産を残していかにゃならんという事、思うただけでも寂しいといったら、風になるのじゃないでしょうか。けれどもこれはね、確かに、信心を頂いておりますと、その、こりゃ晩年に近付けば近付くほど、晩年になればなるほど心の中に何とはなしに、しん、若い時には小さい心の人であっても、心が段々豊に大きくなって行く。
 それがならどういう生き方をするからかというと、ね、「悪いことを言うて待つな、先を楽しめ」と。そういうものが何時とはなしに身に付いてくるからだと。それをいよいよ決定的なものにする。先を楽しませて頂くということを、決定的なものにする生き方。それが又次の、み教えですね。
 一つ、「やれ痛やという心でありがたし、今みかげをという心になれよ」という。これが信心させて頂く者の決定的なですね、えー、段々年をとるにしたがって、まぁ有り難うなる、心が豊になる、大きくなる。先が段々明るう、安心の出来れる行き方が出来るというのはです、こういうまぁいうならば厳しいところの信心修行というものをしていくからだと、私は思います。ね、「やれ痛やという心で有り難し、今みかげよという心になれよ」と。
 今朝方御神前に出らして頂きましたら、えー、はっきりこの字でね、★「苦心」、「無心」という事を頂いたんです。苦心をするというとでしょう。様々な苦心をする。苦しい心とあるですね。苦心。苦心惨憺とこう申しますね。苦心。
 それから、苦心、あ、苦心。それから無心とは無心、無心にというですね。あの子供達が遊びほうけておる状態を、無心に遊んでおるとこう申しましょう。あの無心です。苦心無心という事。
 ね、ほれをこう、私がいおうとしておるところの、おー、最高の境地だとこう思うんですね。信心をさせて頂いておれば、段々段々心が大きゅうなってくる。本当に、まぁこりゃ私の例をとっても、一応そりゃ光橋先生の話を聞きながら私はそれを思うんです、私自身が、もうそれこそもう本当に芥子粒のように小さい心。何とはなしに神経質なですね。
 そういう例えば私が、段々信心をさせて頂くにしたがって、ね、心が何とはなしに豊かに大きくなって。ね、信心の無い人でも心が大雑把で、大きな、豊かな人がありますね。まぁ先日話したことでしたけれど。
 大体昔はあの、椛目時代。23日の(おりがん?)ですね、んー、霊祭だった。霊祭を境にこの立て組みが全部変わる。四季物が全部、夏物から冬物に替わる。いわゆる暑さ寒さも彼岸まで、というから、暑さと寒さの区切りをするわけですね。そりゃもうきちっとそれをしておった。
 ところが今年はとうとう暑かったもんですからね、又23日の霊祭までには、まだ夏の、まだ(みすだ?)が立っておったり、すだれが下がっておったりであった。本当これが以前の私ならもうやかましいこっちゃっただろうけれど、この頃はそれがもう平気でおれれるようになった。
 昨日は久富先生が、そのまぁ一部屋一部屋、その夏座敷から、冬座敷に模様替えをしておいでられよりますが、それでもその、それが一つも心にかからない。なら一つもという事はないですけれどね、この前の月次祭にそのついたてが、(よしどう?)のあの、(よしの?)あれままだってあったから、私があの末永さんに、(あるく?)言うてからあれ替えなさいち言うて、まぁいった話を致しましたがね。
 ね、あの、何とはなしにそういう一つの雰囲気ですらです、自分の心の中に、自分の思うようにならんと、心が平生をかぐような状態。そういういわば小さい心であったけれども、段々それがおかげを頂いて、小さいはずの私が段々大きゅうなっていけれる、気にならんようになって行けれる。
 ということがです、まぁ信心のおかげだとこう思うのですよ。年をとっていくにしたがって、そういう気持ちが段々はげ、激しく強くなって行く人がありますね。信心の無い人にはいいです。
 又は、若い時には今も申しますように、大きな心というか、大雑把な考え方な人が年をとっていくに従って、そおの窮屈の中に入っていく。いわゆる寂しゅうなっていくというね。悪い事を言うて待つな先を楽しめた御教えになるけれども、あその教えを頂いていない人は、先を楽しもうと思うても楽しめん。
 お先真っ暗、先はどうなるじゃろうかと行ったような状態に段々なって行くというのである。そういうところを、神様は信心のない人の哀れさというを、哀れさという言葉をもっていうておららます。
 ね、それを、ならそれを決定的にするものは、この三つならべて今日御神訓を頂いておりますが、やれ痛やという心で有り難し。今みかげをというような心になれよ、というそういうところに取り組んでいくからなのであります。
 ねそれを、私はその事をです、今日ご祈念中に頂きます、苦心無心とはそういう事ではなかろうかとこう思う。もう心がなくなっておるほどにね、無心の状態。何にも考えんですむ。ただあるものはありがたしというだけ。それはね、その前に苦心というのがあるからなんですよ。
 ただ苦心するとね、いうのが勿論ここでは信心の苦心をするからなんですよ。色んな問題、ね、これは人間は誰しも、様々なところを通ります。いわゆる楽しいところもある変わり、又苦しいところも通りますけれども、信心させて頂く者はその苦しい時。ね、苦しゅうてたまらん時、神様におすがりをするんですよね。一心におすがりをする。
 おすがりをするところからです、分らせて頂くのが、その苦しいという事の元が分ってくる。ね、もう苦しいという事はね、直言しますとね、苦しいということはね、もうあなたが汚いから苦しいのですよという事が言えるんですよ。
 もう悩んでおります、苦しんでおりますと。本当に自分がその苦しいというものをですね、追求してまいりますと、とにかくあんたが汚いから。あんたがね、いわゆる限りなく美しゅうならにゃならんと教えて頂くのに、その美しさではなくて、汚いからなんだ、人間が。絶対そこに、苦しいものがとものうて来るです。汚い生き方。
 昨日そのことを、その事についても、えー、昨日の神愛会が取り上げられました事でした。もう本当にもうこれは、私はもう赤裸々な自分の汚い心というものに取り組んだ話しをさせて頂いたら、先生方がいってるんです。
 もう親先生でさえそれなんですからね、私共が汚いはずだとこういうわけなんです。ところが、信心のない人達はですね、自分が汚いといったようなことは考えてみたこともないですよね。
 もうそのまま、あかが付いとりゃ付いとるまま年をとっていくから、段々寂しゅうなっていくんですよ。自分が改まろうというようなことは思ったこともない生き方をするから、段々段々年をとっていくにしたがって心はこもうなっていく。先の方が真っ暗になってくるわけなんです。
 ところが信心させて頂く者はです、信心を極めていけば行くほど、自分の汚さが分ってくる。しかもその汚さというものがです、楽になれない元であるということが分る。ね、いわば苦しい事になってみて初めて、はー自分が汚いけんこういう結果になったんだという事に究極のところなってくるんですよ、皆さん。
 はー苦しいという事ば追求してごらんなさい、必ずそうなってくるです。だから、苦しゅうございます、あんたが汚かけんたい。あんたがもう本当に美しゅうなってごらん、その苦しさはなくなってしまう、解消するんだと。
 ね、汚い欲というものが、ね、いわゆる我情我欲。いわゆる昨日の御理解からいうと、我慢我欲というておられますですね。私共がです、そういう一つの難儀に直面するたんべんに、神様にすがるという事だけじゃなくて、苦しいだからそりゃそげんすがる。そこからい教えが身に付いてくる。教えを頂く。
 ね、神の教えというものが、段々身に付いてくる。そしてです、その苦しいところから、ね、えー、脱却して行く。そこんところの過程を、「やれ痛やという心でありがたし、今みかげをという心」ということになってくるわけなんです。
 やれ痛し、痛やということは、苦しいという事なんです。心が痛む。ね、もう苦しい時にはですね、本当に他のことは、その目に見えんのです。ただ苦しいことだけ。ね。けども段々、苦しいからおすがりをする、教えを頂く。
 ね、そこでなら苦しいということで今私が申すように、あなたが汚いからだということに、まぁみ教えを頂くと段々そういう風に分からせられてくる。そこで限りなく美しゅうならせて頂こうというような事に取り組ませて頂くからですね、こういう苦しいことにならせて頂いたおかげで本当のことが分からせて頂きます。少しは美しゅうならせて頂きましたと、いうところにです、やれ痛や今みかげを。はーこの苦しいことによってこういうおかげを頂いておりますということになってくる。「やれ痛や今みかげをという心になれよ」と。
 ね、場合にはまた、めぐりのお取り祓いを頂いておる。こんな苦しいめぐりのお取り払いを頂いておるというて、お礼を申しあげる心の状態をも開けてまいりましょうね。
 ね、そういう例えばこれは信心の厳しさとでも申しましょうかね。そういうところが私は今日は頂きます、苦心ということではなかろうかと思う。そこに苦心をする。こういう難儀なことが起こってきた元というものを、苦心惨憺してそれを自分で分かろうとする。ね。
 ね、そういう苦心惨憺のあかつきというか、その苦心惨憺の積み重ねがです、どういうことになってくるかというと、とにかく神様のおかげを頂かなければ立ち行かん私だと。ね、だから自分でなんの我情我欲をいう必要があろうかという事になってくるんです。自分で思い、患うことがあろうか。
 ね、それが我情が外れて行く。自分で思う患う、思い患うことがあろうか、神様のおかげを頂かなければここ一寸が動けぬ実は私なのだからと。有り難い、有り難いと思おうと思うても、思えんのが私なのだから。朗らかになろうと思うても、朗らかになれんのが、私なのだから、いよいよ「障子一重がままならぬ人の身」であり、我無力であるということを分からせてもらう。ね。
 障子一重がままならぬ。障子一重、向こうのことがどういうことがあっておる事すら分からない。身の前に起きて来とる難儀が分からない。それが人間の実態なのだ。それが人間の実相だから。本当の姿ということ、ね、実相。
 それが、人間の本当の姿であるという事です、信心の苦心によって分からせられるところから、ね、あなた任せとかあなたにおすがりをするより他にはないという、生き方。そういう生活の生き方、有り方。そういうことにならせられてくるわけなんです。ね、だから、信心ちゃ困った時だけ頼むということじゃないことが分かるです。
 今日言うのは、そういう信心が身に付いてくる。そういう信心が繰り返し繰り返しなされていくところにです、いわゆる無心の状態になっていけれるわけです。ね、丁度、子供がもう無心に遊んでおるあの姿だ。それを究極、信心させて頂く者は、そういう無心を求めて、信心しておるというてもいいのです。何にも思わんですむ。ね。
 衒いがない生き方とでも申しましょうかね。いわゆる有るがままに、なるがままに。という生き方。ね、いわゆる成り行きを尊ばせてもらい、大事にさせて頂かなければならんということが、そこから段々本当なことになってくるわけですよね。
 しかもその、あるがままに、なるがままに、成り行きを尊ばせて頂くという生き方の中に、生まれて来る体験がです、ね、一番自然な自然な生き方。一番素晴らしい、いわばおかげが頂けれることを悟って行く。又は体験して行くから、先の方が明るく。この生き方でさえいきゃ、神様におすがりさえしていけば、この生き方で行けば、いくら年をとっていっても、いや死んであの世に行ってもおかげが受けられるという確信というか、安心というか、ね、そういう素晴らしい心に段々近付いて行くことが出来る。
 ね、そこんところからですね、いわゆる神の教えを分らせてもらい、真の道を歩かせて頂く者の幸せというものを、しみじみ感ずるわけであります。ね、ここでは「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ」と、神様は悲しんでおられるわけ。ね。
 自分が改まらなきゃならんという事も、自分の心の中にある汚い心のあることも、丸きりしらんで過ごしていく人。そこには、どんなに若い時には大雑把な人、大きな人、ね、本当に度胸のある人であった人が段々段々年をとっていくにしたがって、心がこまーっくなっていく。度胸が段々無くなっていく。ね、これが信心のない人の姿。そういう姿を、神様は真の道、真のしん、教えも、信心の道も知らん者の、本当に哀れな姿であると、見ておられるわけです。
 して信心させて頂く者は、それとは、神の教えを分り、真の道を分らせてもらう者の幸せということになるわけ。ね、勿論自分自身にもしみじみようもようもこういう有り難い信心にご縁を頂いておったなぁと、振り返ってみると、あん時に苦しかった。あん時にはもう本当に夜も昼も眠られんような苦しいことであったけれども、その苦しかった事がです、自分の汚さいえであったことが分って、それが改められていく。
 いわゆる「やれ痛や今みかげを」という生き方で生きてきた。ね、だからこの生き方さえ間違えずに頂いていきゃ、先の方は明るい見とおしがつくばかりだと。ね、そして、いよいよ、分らせられることがです、ね、「障子一重がままならぬ人の身」であるという。あなたのおかげを頂かなければ立ち行かんという私。そこには、私のいわばこの現世というかね、現在、この、この世あの世を通してのおかげ。
 あなたにおすがりして行く生活、あなたにおまかせしきった生き方こそが、人間の本当の幸せであるという事を体験を持って分るところからです、ね、(ふう?)肉体がほろびて魂の世界に入ってもです、ね、あなたのおかげが頂けれると確信出来れる信心が、いわば確立されていくわけですね。
 そこがね、何とはなしに、何時の間にかそのように信心を頂いておると分ると、まぁこの、三橋先生はそれを昨日言っておるわけです。自分の周囲を眺めて見る時です、本当あの人は若い時にはあぁいう度胸のある人。あぁいう太っ腹な人であった人がです、ね、最近(いとしえを?)それを見て感じてる。
 あんな人だったのが、年をとらせたらあげん、いわば度胸のない、心のこまい、狭い人になっていっておられるとこう見ておる。そして、はっとその信心のある人の方を見た時にです、はっきりそこんところがですね、あの人は若い時にはあぁではなかったけれども、段々信心を頂かれるにしたがって、大きな心豊かな心、先々が見とおしのある、何とはなしに心にゆとりのある生き方が出来ておられるのをです、その実際自分の周囲に見てみたんですんね、三橋先生が。
 そして、まぁ昨日の話しになった訳でしょうけれども、その事を私は思わせてもらい、ね、今朝からの朝のご祈念に、いわゆる苦心、無心という、これはもう最高の、無心というのは、最高の境地だと思いますよね。
 ね、それはならどういう苦心をしてきたかというとです、ね、「悪いことを言うて待つなよ、先を楽しめ」と言われても、楽しまれないというのが現実であった、私共は。こういう苦しい中に先が楽しまれるもんかいともう、ところが教えを頂くにしたがってです、その次の苦心である、いわゆる厳しい信心に取り組むわけですね。
 「やれ痛や今みかげを」という心を発見するわけです。この苦しい事によって、自分の汚さが分ったと。そこから改まりの生活が出来てくる、その改まるということに苦心をするわけです。
 ですから、そういう生き方が出来る出来んはともかくとして、そういうものだと分っていく生き方の中にです、ね、三橋先生の周囲に信心のある人達の年をとっていかれる姿がです、ね、哀れなというのではなくて、信心させて頂いておりゃあぁいう人達でも、あのように変わっていかれるという事は有り難いことだなぁと分かったわけです。
 ね、私共も果たしてだからそういう過程を通っておるであろうか。悪い事を言うて、先を、を待つ、楽しめれるような心が育っていっておるであろうか。やれ痛やという時に、本当に今みかげをという心でお礼を申しあげれる生活が身に付いてきておるであろうか。ね、確かめ確かめして、本当のものにしていかなければならん。
 神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ、それをだから信心さえて頂く者は、神の教えを知り、真の道を歩いていく人の有り難さという事になるのじゃないでしょうかね。どうぞ。

梶原 佳行